石川県羽咋市
創建は、2千年以上前とも。
第8代孝元天皇の時代に、大国主神が出雲から300余神を引き連れて降臨、能登半島を平定、開拓したのち守護神としてこの地に鎮まったのが始まりと伝わる。
社殿は、第10代崇神天皇のときに造営されたという。
1万坪におよぶ境内には、神域「入らずの森」があり、古代神道のなごりを残す北陸屈指の神社である。
出雲勢力の影響からか、山陰から北陸にかけて「気多」の名がつく神社がいくつもあるが、能登国一之宮・気多大社は、その中心的存在として、朝廷からの厚い信仰を受けて来た。
半島の片隅であるにも関わらず、大社として栄えたのはなぜか。
近年、境内近くで発見された
「寺家遺跡(じけいせき)」
からの出土品から、その理由がわかってきた。
寺家遺跡は、
縄文時代から室町時代にかけての複合遺跡
である。
昭和53年(1978年)の調査では、古代、気多大社の祭祀で用いた塩や鉄器・銅器・木器・ガラス器の工房跡や、関連の遺物が多数発見された。
中でも、注目を浴びたのが、海を隔てた隣国「渤海(ぼっかい)」との深い関係を思わせるものが、多数含まれていたことである。
渤海とは、8世紀から9世紀にかけて、現在の中国東北部から朝鮮半島北部、ロシアの沿海地方にかけて存在した国。
698年、独立当初は、近隣の唐や新羅と対立関係にあり、国家の存続ためには、どうしても日本と友好関係を結ぶ必要があった。
同時に、日本も新羅と対立していたため、背後の渤海と手を結ぶことは、安全保障上、必要な外交政策だった。
気多大社は、
渤海の使者を迎えるために設置された迎賓館
だった可能性が高い。
外交上の最重要拠点だったのである。
約200年間で、計34度の渤海使節を受け入れた記録が残っている。
やがて、他国の軍事的脅威が薄れるにつれ、物資の輸出入による経済交流が中心になっていった。
同じ漢字文化圏に属する両国は、漢詩などの文化交流が盛んに行われ、藤原仲麻呂や菅原道真など、政権中枢のメンバーも、ふるって参加している。
仲良しだった。
さすが、大国主神。
国と国の縁も結ぶ。。。
というわけで毎月1日は、ついたち結び。
「心むすび祭」
無料の縁結び祈願やってます。
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