京都府宮津市
宮津湾(みやづわん)
ほんとに美しい。
天橋立は、かつて籠神社の参道だったとも伝わる。
神代の昔は、匏宮(よさのみや)と呼ばれ、
豊受大神(トヨケノオオカミ)が祀られていた。
のちに、天照大御神も合祀されたが、
第10代崇神天皇の御代以降に、2神とも伊勢に遷座した。
「元伊勢」
と言われる所以である。
その後、白鳳11年(671年)
神武天皇の祖父神・彦火明命 (ひこほあかりのみこと)が、
「雪の中を籠に乗って現れた」という伝承から、
社名を「籠宮(このみや)」とした。
奥宮・真名井神社(まないじんじゃ)の祭神は、今も豊受大神である。
以上、元伊勢と呼ばれる理由について述べたが、
ここからは、
なぜこの辺が、太古から2神を祀る重要な場所だったのか。
について話してみたい。
一般に偽書とされている「ホツマ伝」には、次のような記述がある。
国をまとめ大事業を成し遂げたアマテル(天照大御神/男神)が、最晩年を伊勢の地で過ごした。
現在、伊勢神宮の内宮にあたる場所である。
やがて死期を悟ったアマテルが、終焉の地として、遠く離れた丹波山中、九次岳の洞窟を選んだ。
現在の籠神社から西に約15㎞の場所である。
理由があった。
義父・トヨケ(豊受大神/男神)への恩義である。
アマテルの妻・瀬織津姫の父であるトヨケは、東北の王だった。
青年アマテルは、トヨケが拠点とした多賀城で育ち、政治、経済、産業、農業、医術、歴史、信仰、武芸、馬術、、等々。
あらゆることを学び、リーダーとしての素養を身に着けていった。
人生の師・トヨケは、後に山陰道統治のため、丹波の地に移り住む。
善政を全うし、最期を迎えたのが、九次岳だった。
アマテルも同じ場所を望んだのである。
洞窟を掘ったのは、あの猿田彦と伝わっている。
ヤマトの祖神2人は、今も山の上から仲良く天橋立を眺めている。
というお話。
古事記・日本書紀とは、全く違うがおもしろい。
話は変わるが、
おそろしく長寿だった伝わるアマテラスは、ある薬草を常食していたという。
千代見草(チヨミグサ)
菊の一種である。
皇室のご紋は、これが起源か。
長生きしたいけど、菊はちょっと。。。
と思う人は、こちらをどうぞ。
羊羹のとらや「千代見草」
失礼!
販売終了してた。
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