住吉神社西門から中央区渡辺通り方向にまっすぐ伸びている道路を「住吉橋通り」と言う。
なぜかというと「住吉橋」があるからだ。
で、今回紹介するのは、春吉側に渡った橋の袂に置かれている「大きな石」の話。
側面には、なにやら漢字がいくつも刻まれており、ひらがなカタカナはない。
横に立つ看板には「稲光弥平(いなみつやへい)顕彰の碑」とある。
「顕彰(けんしょう)」をググってみる(インターネットのGoogle検索で意味を調べてみる)と「功績などを一般に知らせ、表彰すること」とあった。
稲光弥平は、150年前の江戸時代末期、春吉地域に暮らした豪農(大地主)である。
当時も「城下町福岡」と「商業の町博多」は、那珂川で隔てられており、河口から現在の博多区美野島エリアまで「西中島橋」「西大橋」「春吉橋」そして「住吉橋」の4つの橋(現在は15)が、地域の経済や人々の生活を支えていた。
しかし、水量が豊富な那珂川は頻繁に洪水を起こし、その度に橋は流された。
弥平の生きた天保(1830~43年)・弘化(1843~47年)年間は、特に洪水が頻発し、財政の厳しい福岡藩もその度に破壊される橋を完全に復旧させることは出来ない。
何度、架け替えても洪水の度に木っ端みじんになってしまう住吉の橋。。。。
見かねた弥平は、一念発起。
莫大な私財を費やして、那珂川の真ん中に人工の島(中の島)をつくり、その上に橋脚を建て、洪水にも負けない「史上最強の住吉橋」建設に成功したのである。
以降、水害は激減。橋は壊れることなく住吉神社の参道としての役目を立派に果たした。
しかし、その後の明治維新のゴタコタで、橋も弥平の功績も人々の記憶から失われ、いつしか橋もコンクリート製に架け替えられた。
時代は変わり1930年(昭和5年)頃、弥平がつくった中の島の地中深くから、文字が書かれた石が偶然発見された。
その文字とは、
天保弘化之間(天保・弘化の時代にたい!)
頻有洪水損橋再三(ばりばり洪水のあって、たんびに橋の壊れるけん!)
稲光弥平憂之(おいは、こげんとに心ば痛めてからくさ!)
安政二年春(安政2年/1855年の春にたい!)
築此中嶋也(こん中の島ば、つくったったい!どげんやぁ!!)
というもの。。
弥平は、何度も失敗を繰り返しながら、やっと完成させた人工の島の地下深く、自ら刻んだ石碑を誰にも見せずに埋めたのである。
住吉神社にさえ、弥平の功績についての記録はないという。
人には言わない。
記録にも残さない。
「自分のみ・非公開のツィート」である。
司馬遼太郎の本によく出てくる話、江戸・明治にかけての日本人のほとんどがもっていたという公共心やその至誠については、学ぶべきことが多い。