博多商人の「粋」を守った「博多塀」
この場所は、明治時代の博多商人、下澤善右衛門親正(しもざわぜんえもん ちかまさ)が建てた住吉別荘の跡地である。
「楽水」とは、親正の雅号である。
雅号とは、文化人などが本名以外につける風雅な名のこと(吉田寅次郎は「松蔭」、森林太郎は「鴎外」といった感じ)で、この場所にも1995年(平成7年)福岡市によって整備された際、親正にちなんで「楽水園」という名前が付けられた。
以来、人々の憩いの場所として親しまれている。
今回は、その庭園を囲む塀「博多塀」のことに触れてみたい。
現存する「塀」は、明治39年に親正の別荘が建てられた際に造られたものであるが、その由来は、遠く戦国時代末期に遡る
16世紀末、長く続いた乱世を終わらせ、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、それまで大友や毛利、島津といった戦国大名達の争いで見る影もなく荒れ果てた博多の町を復興させる計画を立てた。
秀吉の家臣、石田三成、黒田官兵衛が中心となり実施したいわゆる「太閤町割り」である。
復興事業に際し、官兵衛達は町中に散乱していた焼け石や焼け瓦などを再利用し土塀を造った。
リサイクルである。
しかし、瓦礫で造られたにも関わらず、その完成度は高く、見た目も美しいことから「博多塀」の名で地元の人々にも愛され、その後大事に守られてきた。
その痕跡は、今でも博多の町に遺されており、櫛田神社、崇福寺、聖福寺などで見ることができる。
戦国時代の土木技術と芸術性の高さを実感できる建造物である。
親正も同様に博多塀を愛し、高度な技術をもつ職人を集め、当時の歴史をたどり正確に復元したという。
江戸時代の代表的な庭園様式をもつ「楽水園」だが、「博多塀」の美しさもまた福岡が誇る歴史の一部といえる。必見である。
抹茶セットは、300円で楽しめる・・・美味しい。
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